毎朝、有難いことに当山にはお参りの方が来られます。
手を合わせ「カラコロンバラン」と音を立ててお賽銭を投げて行き来ます。
ある人はお賽銭箱にお金を投げていきますが、
ある人は私が毎朝、水行をしている樽の中に
お金を投げていきます。
お賽銭箱の方は大丈夫なのですが、
水行の樽の方に入れられたお金は2〜3日するとなくなってしまうのです。
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誰でも手の届くNOセキュリティーの野ざらしの樽ですから、
「ラッキー100円玉、500円玉あるしもらってこう」
と財布の中に入れてしまう人がいるのでしょう。
お賽銭を投げていく人は何かお願いがあって、
お金を投げていきます。
当山に祀られている仏様にお賽銭というお金を供養として捧げ、
自分、家族の健康、商売繁盛や学業成就、時には世界平和をねがっているのでしょう。
心が形になった。お賽銭という形です。
その供養のお金を持って行ってしまうなんてなんて
「ヒドイ!泥棒じゃないか。」と思っていました、最初はね。
何日もそんことが続いたある日、ふと思いました。
この樽に入っているのはそもそも誰のお金なのだろう?
私のお金なのかな?
お金を入れた人のお金なのか?
このお金を持って行ってしまう賽銭泥棒のモノなのか?
どれも違います。
当山に祀られている仏様のお金なのです。
お参りに来られる方は私にお金くれているわけではありません。
お金を持って行ってしまう賽銭泥棒にあげるわけでもありません。
仏様に供養として、仏様にお上げしたものなのです。
正解は仏様のモノでした。
だから、本来、樽のお金が抜かれたとて私に「最悪!ひどい!賽銭泥棒!」という権利は到底ないのです。
仏様の持ち物、お賽銭、そのお金の使い道は仏様が決めるべきなのです。
例えば・・・・
あるお蕎麦屋さんがお店にお客さんが来るようにと
樽の中に300円を投げていきました。
そして、その後、私が仏様の前で水行をして、お経をあげます。
その後、賽銭泥棒さんが「ラッキー、300円あるやん。お腹も空いたし、下の蕎麦屋で美味しいおろし蕎麦でも食べるかな」
蕎麦屋の店主「いらっしゃいませ。」
賽銭泥棒「おろしそば大盛りで」
蕎麦屋の店主「1000円になります。」
例えばですが、これでお賽銭を投げた蕎麦屋の店主の願いは叶いました。
300円をお賽銭で投げて、1000円の食事をしてもらえば、700円の売り上げです。
そんな世界に気づかない私は、300円を持っていかれた事に憤慨をしていたのです。
自分のお金でもないのに・・・
それをずっと見ているのは樽の前にいて、お金の出入りを見ている仏様だけなのです。
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もしかしたら、毎日熱心にお参りに来て、お賽銭を投げて行く人の為に、あえて賽銭泥棒を呼び寄せ、願いを叶えたのやもしれませんね。
お釈迦様の言葉に
「無相の相にして、有相の身なり。」
簡単にいうと
「仏様の体や力は形が無いもの、でもその形が無いもので、形を作っていますよ」
という事です。
深っ!深海並みの言葉です。
「という事です。」って言われても・・・
お賽銭を投げたとて、お祈りをしたとて、
確かに仏様の手が伸びて、実際に手を差し伸べている姿や
手からビームが出て願いを叶えている姿はこの人間の目では見ることができません。
しかし、仏さんは人間の劣った目では捉える事の出来ない形の無い姿で、形の有る結果をもたらしてくれますよ。
というものです。
人は目で見た結果しか信じられません。
「お賽銭投げてお参りしてもなんも効果ないやん」
「最悪だ。賽銭泥棒だ。」
「ラッキー、300円もらい」
「お参りしてくれてありがとう。見える形で必ず返すよ。」
さあ、あなたはどこまで見えますか?