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(ちょっこと説法)石ころと宝石

ふと道端を見ると歪な形をした石ころが転がっている。

丸、三角、四角。色は灰色、白、黒、混合色様々だ。

私は別に石の愛好家でもないし、あまりそれに価値を見出したこともない。

おそらくほとんどの人が私と同じ感覚だと思う。

一方、同じ石でも宝石ともなれば、話は変わってくる。ダイヤモンド、サファイヤにルビー。

それらは同じ石というジャンルに属していても1億、2億の大金をはたいて購入する人もいる。

先ほど同様、私は石の愛好家でもなければ、宝石マニアでもない、ましてや宝石強盗も行ったこともない。

もっというと道端に宝石が落ちていてもそれに気づかず、素通りをしてしまうだろう。私にとって宝石は石ころとそんなに価値の変わらないものなのである。

かたやそれに1億払う人間、かたや石ころと変わらないと見向きもしない人間。

ものの価値というのは非常に不思議なものである。

お寺詣りに来られる信者さんの反応がこれに似ている。

ある人はお寺を素通りして歩いていく。

ある人は立ち止まり、中を覗いていく。

ある人はお賽銭を投げて、手を合わせ、何かを唱えてお祈りをしていく。

ある人は私に仏様の話を聞きたがり、お経をもらって帰っていく。

そして、ある人は涙を流し、「ありがたい」と一言呟いて帰る。

ある人からすれば、仏像というのは木製の人形を飾っているとしか思わないであろう。

ある人からすれば、仏像は仏様そのものに見え、自分が守ってもらっている感謝の対象なのかもしれない。

当山に祀られている「不動明王像」は木製で出来た人形である。

しかし、それはただの人形ではない。

お経の力を込めて、人の思い、魂を入れ込んだ「生きた不動明王」なのである。

僧侶をしていると不思議な現象に出会う。

あるお寺に祀られている仏像には人毛が埋め込まれていた。

仏像を寄進した信者さんのお母様が亡くなられた後、母の思いを残したいという遺族がその仏像を作り、お寺に安置してもらっているのだろう。

その仏像は不思議にことに毎年、髪が伸び続けている。

なぜだろう?なぜなんだろう?

もしこの仏像がただの木製人形であれば、命はないはず。

髪は伸びることなない。

この摩訶不思議な現象、

モノはただの物ではない。

人の思いや心、魂、念、感情、精神。

様々なものがそのモノに向いた時、人間の常識だけでは測れない生きモノになるのである。

お釈迦様がお経の中でこんなことを言っています。

「私の姿は目を開くと見えなくなる、でも、目を閉じると見えてくる」

我々、人間は残念なことに目で見たものしか信じられない生き物です。

でも本当に大切な物事は目を閉じてゆっくり考え、モノの価値やそれに向ける思いを塾考した上で初めて見えてきます。

目が2つあるのは素敵なこと、でも目があるが故に大切なモノを見落としていませんか?

時に目を閉じて見るのも良いかもしれませんね。

そんなことを考えて見ると私も宝石の価値を少しは目を閉じて、勉強したほうが良いかもしれませんね。

ちなみにダイヤモンドの石言葉は「清浄無垢」

仏教用語です。

煩悩、汚れがなく、清い様という意味です。

お経の中にもダイヤモンドの話は幾度となく出てきます。

宝石と仏教、意外と関係ないようで関係があるんですね。

石ころを宝石と見るか?宝石を石ころと見るか?

あなたには何が見えますか?

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